こんにちは、ドM女戦士代表のメリッサです。(こんな肩書きイヤだw)
メリラボを読んでいるあなたも、間違いなく立派なドM女戦士。
そこでドM女戦士の重要な心構えとして、「自分のしたことがさらに大きくなって自分に返ってくる。」というお話をいたします。
- 自分のしたことが返ってくる
- 因果応報
- 情けは人の為ならず
- 与えよ、さらば与えられん
という言葉は、どういうことを言っているのでしょうか?
これらは自分軸で物事を捉えるには欠かせない、この世界の法則の1つです。
宇宙のルールでも自然の摂理でも原理でも本質でも、名前は何でもいいのです。
知っていても、腑に落ちていないことが多いかもしれません。
ただ「そういう風になっている。」と受け入れることで、
引き寄せたいものを、より早くより多く引き寄せることが可能になります。
前記事の中に出てきた「自分で蒔いた種は自分で刈り取らなければならない。」という話も同じです。
しかし表現が曖昧だったので、違う捉え方もできてしまう事に気が付きました。
ここで理解をしっかりと深めておきたいと思います。
Contents
因果応報は、抗えないこの世界の法則
自分がしたことが自分に返ってくるというのは、子供のころに親に言われたことがありますよね。
「自分がされて嫌なことは、人にしちゃいけないのよ。」という言葉だったかもしれません。
これも間違いではなりませんが、私は「自分がされて嬉しいことをしてあげようね。」と言い換えて、子供たちに伝えています。(引き寄せの法則を知ってる人は、なぜだか分かるかな?)
- 因果応報
- 情けは人の為ならず
- 与えよ、さらば与えられん
これらの言葉も、基本的に伝えたいことは同じですね。
因果応報は仏教、与えよさらば与えられんはキリスト教。
宗派は違えど同じことを言っているということは、万事に共通している、つまり「そういう風になってる。」んだと思います。
ちなみに「情けは人の為ならず」というのは日本のことわざです。
情けは人の為ならず
語源を調べてみると、新渡戸稲造の読んだ句の一節だそう。
ほどこせし
情けは人の為ならず
己がこころの
慰めと知れ我ひとに
かけし恵みは忘れども
ひとの恩をば
ながく忘るな歴史・由来・意味の雑学より引用
こちら↑がその句の全文。
「人にしてあげたことは忘れても、してもらったことは忘れるな。」
という意があったことは、この度初めて知りました。
人に対して情けを掛けておけば、
巡り巡って自分に良い報いが返ってくるという意味文化庁月報より引用
今回私はこちら↑の意味で使っています。
自分がしたことは本当に大きくなって自分に返ってくるのか?
私にとって、本当に返ってくるかどうかというのはあまり重要じゃありません。
なぜなら、返ってくることを目当てにしてそれをする、というわけではないからです。
返ってくること=見返りを求めてするのであれば、見返りを求める下心もまた自分に返ってくるんじゃないかな?と思ってます。
私が目指す理想は無償の愛、見返りを期待せずに思いやれる人になることです。
まっだまだ修行中ですけれども!!
でも引き寄せたいことがある場合、このルールを利用して倍速倍量でどーん!と返ってくるなら嬉しいですよね。笑
自分に返ってくる
ブランコを引っ張って手を離すと、あちらへ行ってまた戻ってきます。
ブランコの紐が長ければ、戻ってくる時間は長くなりますが、それでもやはり行ったっきりということはありません。
ボールを壁に向けて投げても同じ。壁にぶつかったボールは、こちらに返ってきます。
実際はこんなに目に見えて分かりやすいものばかりではありませんね。
どちらかというと、水滴をボールに垂らしたときにできる波紋のイメージ。
一滴垂らすと中心から輪が広がっていき、ボールの外側につくとまた内側に向かって戻っていく。
広がって戻って広がって繰り返されて、輪が重なり合って、新たな広がりによって消えていく。
物事も発言も行為も、全て同じこと。
自分がしたことは自分に返ってきます。
自分がしたことが返ってくるのです。
したことが大きくなって返ってくる
手放したブランコが花束になって戻ってくることはありませんよね?笑
ボールを投げて、猫になってもどってくることもありません。
したことが返ってくるとは、そういう意味です。
これは種によく例えられます。
かぼちゃの種を蒔いて、トマトはなりません。
桃の種をうえて、りんごはなりません。
そして、1粒の種を蒔いて、同じ1粒だけの実がなるわけではありません。
大抵はいくつか実がなります。その実の中には、いくつもの種が入っています。
1粒が沢山になって返ってくるのです。
自分が蒔いた種は期限内に自分で刈り取らなければならない
自分が蒔いた種は、自分で刈り取らなければなりません。
知らんぷりして放っておくとどうなるか、ご存知ですね。
熟した実は、刈り取られるのをいつまでも待っていてくれません。
その実は自ずと弾けて土に種が落ち、新たな芽が生え苗となり、全開よりもたくさんの実となるでしょう。
より大きくなって「まだ見ようとしないの?」と、私たちを試してくるのです。
それでも見ないふりをしていると…?
今回の人生だけでは刈り取れない大きさになっているかもしれません。
自分だけでは刈り取れない量になっているかもしれませんね。
良いことしたのに悪いことが返ってくる!
小さなころから正直に人に優しく生きてきたのに、バカばかり見る。
いくら良いことをしても、悪いことばかり返ってくる!
こんな理不尽とも思えるような目に遭うことは、人生には一度となくあります。
これはなぜでしょうね。
良いことをしたら、必ず良いことが返ってくるのではないのでしょうか。
下心は自分の欲の表れ
先程も書きましたが、良いことが返ってきて欲しいという下心で何かをしても、すんなりと良いことは返ってこないような気がしませんか?
心の奥底では何かを得たいとか良い評価をされたいという私欲からの行動であれば、誰かのためではなく結局は自分のため。
例え巡って自分に返ってくるものがあったとしても、立場を変えて自分がしたことを次は逆にされる側で味わうなど、良いことでは無さそうです。
おむすびころりんやこぶとり爺さんのお話を思い出します。
返ってきたことではない場合もある
自分の身に起こることは、全て自己責任です。
これは自分がしたことが自分に返ってくるから、自分に起こることは自分がしたこと、と考えても成り立ちますが、それだけではなく。
自分でそういうキャラ設定をしたから、自分に引き起こす必要があったという場合も。
例えば自分で「私は悲劇のヒロイン」というキャラ設定をしたから、継母や義姉にイジメられたシンデレラもそう。
「何で私ばっかり掃除するねん、ねーちゃんも手伝ってんかー!
ちょっとオトン、新しいオカン性格悪いわー!」
というズケズケ図太いキャラだと、あのストーリーは成り立ちませんもんね。
本当に悪いことかどうかは自分の捉え方次第
私たちが生きるこの世界では、全てにおいて二面性があります。
男と女、光と影、静と動のように、物事には見方によって良い面も悪い面もどちらもあるのです。
良い面、悪い面と書きましたが、良いか悪いかを判断するのは私たち自身です。
私たちがそれを良いと思えば良いことになるし、ネガティブに捉えれば悪いことになる。
悪いことだと思っていたことが、実は成長に必要な学びの場だったということがよくあります。
今後の人生に必要だったから、その経験をしたということ。
私の人生において、痴漢や強姦(未遂でしたが)などの性被害に幾度も遭ったことや、毒親育ちであること、イジメの体験がそうです。
これは自分でそうキャラ設定したことにも通じます。
経験する必要があったから、そういうキャラ設定にして、実際自分の身に引き起こした、という感じですね。
《まとめ》小さな感謝を積み重ねる
- 自分がしたことが自分に返ってくる
- 自分がしたときよりも、大きくなって返ってくる
- 自分が受け取るまで、それは繰り返される
- いつでも受け取れるわけではなく、期限がある
- 繰り返されるたびに大きくなっていく
因果応報という言葉のイメージでどうしても悪い印象が強いですが、決して悪いことばかりではありません。
自らの原因から生まれた結果に応じて自らへの報いとなる、とすれば、良いことすれば良いことが、悪いことをすれば悪いことが自分の身に返ってくるのです。
『与えよ、さらば与えられん』という通り、愛を与えると愛が返ってきます。
ではどうすれば日常で、良いことを引き寄せられるようになるのでしょうか。
下心があると台無し…というと難しいことに思えます。
しかし毎日無数に出会う1つ1つの選択肢において、「自分がされて嬉しいことをする。」を選び続けていればそれが自分の中で当然となります。
当然になったことは、無意識で選べるようになっているはずです。
最初は小さいことから。
感謝すること。「ありがとう」を伝えるところから。